SS2 - 名無しさん
2023/09/26 (Tue) 23:31:52
4月の初め。
レスト一行がスリズィエ村に着いて、しばらく経った雨の日の朝。
「さあレストさん、書類仕事、頑張りましょう」
「…だってさ、フォッグ。あとは頼んだ」
「いや、オレに言われても知らねえよ!お前の仕事だろ!」
宿屋の一室で、レストとクロムの前にうず高い書類が積み上げられていた。
年度が変わった直後だからか、書類仕事が溜まりに溜まっていた。今日は雨なので、ここぞとばかり、集中して書類仕事をしよう、とクロムが言いだしたのだった。
「せっかく任務がしたくても、こんな天気じゃなぁ…」
フォッグが二人の後ろで魔導書を読みながら、ぶつぶつ言う。
「春先の雨は多いですから、仕方がないですね」
「レストは早くも死にそうになってるけど…」
レストは仕事を始める前から机に突っ伏して、気を失いかけていた。
「ちょっとレストさん!サボらないでください!」
「…ごめん、ちょっと休ませて」
クロムの困った声を後ろに聞きつつ、レストは目を細めて、窓の外に降りしきる雨を眺めた。
窓に雨粒が当たると、ガラスのように砕けて、流れ落ちていく。
レストは半年以上前に離れた町と、その時に会った女の子のことを思い出していた。
去年の夏、アレクシア邸のバルコニー。
「お前のことが好きっス!」
ミスティア町を離れる前日、レスト達はアレクシア邸を訪れていて、バルコニーでニャーコはレストに気持ちを打ち明けていた。
レストと話せるのは、きっと今日が最後だと思ったニャーコは、一歩も引かない気持ちでレストを見据えていた。
レストは少し頬を赤くして、顔をそむけて「…なんで、そんな急に」と言った。
「きゅ、急も何も!今言えなかったら、一生言えねぇままじゃないッスか!」
レストは黙ったまま、バルコニーの欄干にもたれかかって、組んだ腕に顔をうずめた。
ニャーコはそのしぐさを見て不安な気持ちがして、足が細かく震えた。
「ごめん、ニャーコの気持ちは受け取れない」
低い、まっすぐな声がニャーコの耳に落ちる。ニャーコは、顔や指先から、熱さが引いていくのを感じて、唾を飲み込んだ。
「そうッスか。…でも、どうしてッスか?ニャーコのことが好きじゃないから、だからダメなんスか?」
冷静を装いながら、ニャーコは震える声で聞いた。
レストは、何も言えなかった。
ニャーコは、これ以上聞かない方が良いかもしれないと察して、返答を諦めた。
二人の目線の先には、夏の風景が広がっている。
「…あーあ…暑いッスね、本当に」
時計が進むにつれ、暑さは強くなっていく。青白い山々の稜線が、空と山とをゆるやかに隔てていた。入道雲がもくもくと夏空に膨らみ、原生林で鳴く蝉の声が聞こえる。
それから、何か会話を交わした気がしなくもなかったが、思い出せなかった。「ニャーコの気持ちは受け取れない」という声の響きが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「レストさん、この書類のサインが抜けてますけど、書いてもらえます?」
絶え間ない雨音。
クロムの声で、レストは現実に引き戻される。文字の羅列が、再びレストの目に入ってくる。クロムの指摘通り、サインが抜けている個所があったので、書き入れた。
上の空で仕事していると、こうなる。今さら過去のことなんて思い出していてはいけない、とレストは自分に言い聞かせた。
「そういえば、明日アレクシアがこの村に来るけど、酒とか買っとくか?」
魔導書を読むのに飽きたフォッグが、伸びをしながら言った。それを聞いたレストは書類を読みながらそっけなく答えた。
「買わなくていいんじゃない?」
実は数日前、スリズィエ村に滞在していたレスト達に、アレクシアから手紙が届いた。桜が綺麗というこの村の評判を聞いて、アレクシアがお花見に訪れるらしく、時間があればお酒でも飲まないか、という申し出だった。
「お酒、準備しとく必要ある?だるいし、当日買えば良くね?」
レストはあくびをしながら言った。
「お前なぁ…せっかくアレクシアが来るって言うのに」
「酒が欲しいなら、俺が調合してあげよっか」
「レストさんが調合すると限りなく毒に近いものができそうなのでダメです」
「そんな!俺だって頑張れば酒だって作れるよ!」
ぎゃあぎゃあ言うレストの横で、クロムが落ち着いた声で続けた。
「…アレクシアさんにお会いするのも半年ぶりくらいですよね」
「アレクシアの奴、元気にしてるかな。そうすると、ニャーコも来るのか?」
「手紙には書いてなかったですけど、たぶん来るんじゃないですか?」
二人の会話を聞きながら、ニャーコの名前が出たので、レストは心中穏やかではなくなった。
どういう顔をして会えばいいんだろう、と思った。ニャーコとのことは、クロムとフォッグには言っていない。レストは書類仕事をしながら、ずっと考えていた。そのせいか、また細かいミスをいくつかしてしまった。
夕方になり、書類仕事が片付いた。外の空気でも吸いに行こうというので、三人は外に出た。
外に出た瞬間、雨と泥の濃いにおいが鼻をつつく。朝から降り続いた雨は勢いを増して、風も強かった。スリズィエ村全体が薄桃色に煙っていた。
「ひゃっ、すごい雨ですねー」
クロムは泥に足を取られて、転びそうになりながら言った。 (相変わらず危なっかしい…)とレストは思った。
ゆるやかな丘を上がっていく。丘の上には名所の桜公園があり、明日は、そこにアレクシア達が来る予定だった。
丘の上に着いた。桜は満開だったが、雨と強風にさらされ、今にも吹き飛ばされそうだった。
「綺麗ですね…久しぶりに見ました、桜の花ですよ。ほら」
クロムは無邪気に桜の花を指でつまんで、にっこり笑った。
しかし、今にも吹き散らされそうな桜を前にレストとフォッグは何も言えず、気まずい気持ちだった。
もし明日も雨なら、持病の仮病でも使って部屋で休んでいよう、とさえレストは思った。桜が散ってしまえば興ざめだろうし、何よりニャーコに会わなければならないことが、レストにとっては、きまりが悪く、煩わしいことだった。
(…ますます、どんな顔をして会ったらいいか)
レストは桜の花をそっと手に取った。しっとり濡れたさまは、けなげでもあった。
翌朝。
レストが起きたとき、クロムとフォッグは先に起きていて、朝ごはんの準備をしていた。
「レストさん、おはようございます。見てください、今日はすごく良い天気ですよ!」
「んー…おはよう」
レストは目をこすりながら、窓の外を見た。雨で洗い流したような、雲一つない青空が広がっていて、何か皮肉めいたものを感じた。
レスト達は朝食を済ませて、花見の準備をした。
レスト達は宿屋を出て、桜公園に向かう。
途中には、村の住民だけではなく、他の地方から来ているであろう人たちの姿もあった。今日は日曜日。多くの人が訪れるだろう。
三人で話しながら、やがて丘の上に着いた。
内心、昨日の風雨でとっくに散っているだろうと思っていたが、ふと顔を上げて、思わず目を疑った。
「おぉ…」
思いがけず、桜は満開だった。
朝の光の中、花々がそよ風に悠悠となびいている。昨日の風雨で散るどころか、ますます誇らしげに咲いているように見えた。
「凄いな、桜って強いんだな」
フォッグがやや興奮した声でつぶやいた。
「普通は昨日みたいな風と雨だったら散っちゃうはずなんだけどな…」
レストは桜に近づいて、手で触って確かめた。大きく、張りのある花びらの感触に、驚く。
(色も、形も少し違う…地元の桜と種類が違うのかも)
そのとき遠くから、甲高い声がした。
「あ、あそこにいるッスね!おーい!」
耳慣れた声にレストはぴくんと反応した。
遠くに、黒いドレスを着けたアレクシアと、その少し後ろで、大きく手を振ってアッピールしているニャーコが見えた。
ニャーコは、レスト達のもとにすたすたと歩いて来た。
「お前たち、久しぶりッスね!元気にしてたッスか?」
「ニャーコさん、久しぶりですね!僕たちは元気ですよ」
ニャーコは、アイボリーのニットトップスに、暗めのマーメイドスカートを着けていて、柔らかくもエレガントな印象だった。
少し遅れて、アレクシアが来た。
「あなたたち、久しぶりね」
「久しぶりです、アレクシアさん。スリズィエ村まで来るの、大変だったでしょう?」
「そうね、転移魔法でも使えればよいのだけど、そういった魔法は使えないから…大変でしたわ」
ため息をつくアレクシアの横でニャーコは快活に振舞っていた。そんなニャーコを、レストは意外そうに見ていた。
それから、5人は談笑を始めた。
「そういえば、この村に美味しいお酒があると聞いたのだけれど」
「あ、この村のお酒、買っておくの忘れちゃいました…フォッグ、今から買いに行きましょう」
「あら、あたくしもどんなお酒があるか気になりますわね。ついて行って良いかしら?」
「もちろんです、一緒に行きましょう!」
「ニャーコ!それじゃ、場所を取っておいて下さるかしら?」
「了解ッス!」
そのやり取りを聞いて、レストは「じゃあ俺も場所取り組で」と言った。
「あれ?レストさんはお酒買いに行かないんですか?」
「うん。ほら、場所取りって大事だし」
「そうですか」
クロムとフォッグ、アレクシアは、村の方へ歩いていった。
3人が見えなくなってから、ニャーコはくるっとレストに背を向けて、桜並木を慌ただしく見渡す。
「さて、どのへんがいいッスかねぇ。…あ、あのあたりはどうッスか?」
「いいね」
ニャーコは、ちょうど桜が良く見える場所に素早く駆けていって、そこにレジャーシートを敷いた。
「これで場所確保はOKだね」
「そうッスね」
その時、ばちっと視線がぶつかった。ニャーコはぎごちなく笑って、「そのへん歩かないッスか?」と言った。
二人は寄り添って歩いたが、押し黙って足元ばかり見ていた。足取りが微妙に揃わなくて、ときどき身体がぶつかりそうになった。
「アレクシアからいきなりスリズィエ村に来るって手紙が来て、驚いたよ」
レストが先に沈黙を破った。
「そうなんスね。でも、無事に来れてよかったッス」
ニャーコは細い指先で髪をかき上げながら言った。
「元気してた?」
レストが聞くと、ニャーコはにっこり笑って言った。
「うん。ちょっとつらい時もあったッスけど、もう大丈夫ッスよ」
ニャーコの顔は活気があり、血色が良かった。しかし、「つらい時」という言葉に秘めやかな響きがあるのを、レストは聞き逃さない。
「そういえば、この村って、どんなお菓子があるんスか?」
「桜餅とか、団子とか。さくらんぼのお酒もあるけど、甘ったるくて俺はあんまり」
「甘いものは大好きッス!早く食べたいッスねぇ」
「太るよ」
からかうように言われて、ニャーコはぷりぷりして言い返した。
「ニャーコは毎日身体を動かして働いてるからいいんスよ!そういうお前こそ、太るッスよ」
「俺はもともとそんなに太ってないし、いいの」
「それは、ニャーコに含むところがあっての言葉ッスか?」
「…いや」
「今の間は何ッスか?!」
ニャーコがレストの失言に噛みつこうとしたとき、甘美な香水の香りが漂ってきて、レストは戸惑った。
ふと、レストは最後にニャーコと話した時のことを思い出した。
当時、ニャーコには二度と会うことはないと思っていた。しかし今ここで、何事も無かったかのように話している。レストは自分がどう思っているのか、考えてみると分からなくなった。
その時、一陣の強い風が吹き過ぎた。
すると、満開の桜が一斉に散り始めた。
「わぁ…!」
ニャーコは無邪気に歓声をあげ、きっと初めて見るであろう桜吹雪にうっとりしていた。
一方レストは、後ろ髪を引かれる思いで見ていた。
そんなレストを横目に、ニャーコはそっと言った。
「お前、どうかしたんスか?」
「は?」
「何だか難しそうな顔してるッスよ」
ニャーコはレストの顔をのぞき込み、ささやきかけるように言った。
「何か、嫌なことでもあったッスか?」
レストは答えに詰まり、口をつぐんだ。
ニャーコは、優しく、謎めいた微笑みをたたえながら、注意ぶかくレストを見つめていた。
木漏れ日が、顔の上を柔らかく転がっていく。
レストは、頬が火照るのを感じて、桜の方にさっと目をやった。そして、静かな声で、
「…別に。何でもないよ」と言った。
ニャーコはきょとんとした。それから、納得したように、「それなら、良かったッス」と言った。
散っていく花びらが、陽射しを照り返して、雪のようにきらきらと光っていた。
二人が取っておいた場所に戻ってくると、遠くからクロムたちがやって来た。
「待たせたな、サクランボ酒と名物のお菓子、買ってきたぞー!」
フォッグが大声で言った。その瞬間ニャーコの顔は喜びに輝いた。
「かんぱーい!」
それから、5人は座って、サクランボ酒を飲んだ。
ニャーコにとって、サクランボの香りは強かったけれど、好ましい味だった。飲み込む瞬間、ほんのりと酸味がはじけた気がしたが、その余韻を探すことはできなかった。気のせいだったのかも、と思った。
5人は、時間を忘れて談笑にふける。
その時、村の方で、ゴーン、と鐘が鳴った。正午になったのだ。
春風が甘く、お花見が一段と賑やかになっていく。
のどやかな青空は、そんな喧噪も知らぬげに、高く澄み渡っていた。